まだ8年もう8年、あの日は・・・

2011年3月11日14時46分。
そういう日だった。
8年も前だが・・・あの日のことだけは鮮明に覚えている。
忘れようにも忘れられないからだ。
体験したことの無い大地震
職場から眺めた東京はあちこちから煙が上がっていた。
新宿駅の周辺は行き場を失った人で溢れかえる。
新宿のど真ん中なのにケータイが繋がらず圏外。
外にいる人の中には防災用ヘルメットを被っている人も。
池袋駅近くでたまたま見つけた公衆電話には30人以上の行列が。
動かない電車を諦め徒歩で帰宅する数え切れない帰宅難民。
入らない情報でわずかに聞こえてくる被害。
水道管が壊れ水浸しになる道。
全く動かなくなる国道と終わりの見えない渋滞。
コンビニでありったけの食料を買い込む老人。
サイレンが鳴り止まない建物。
ビルの外壁が崩れ地面に散らばっている国道沿い。
自分の安否を伝える手段が何1つない状態。
圏外から脱出しようとひたすらに埼玉方面へ歩く。
国道沿いの飲食店のテレビで津波で死者が出ていることを知る。
その時は津波で死者の意味が理解できず。
歩いて2時間~3時間経ち埼玉近辺になった時にようやく圏外脱出。
メールが一気に10通以上来る。
その日予定されていた飲み会はさすがに中止。
ようやく自分の安全を伝えることに成功。
板橋~戸田橋、つまり東京と埼玉の県境の橋。
埼京線で言うところの戸田公園あたり。
川が・・・逆流していた。
普通は埼玉から東京へと南下していくはずの水流が全くの逆、水が北上していた。
ここでようやくとんでもない事態が起きていることに気付く。
逆流ではない、正確には津波だった。
津波は荒川を遡って確かに埼玉にまで届いていた。
6時間かけての帰宅。
頻繁になる緊急地震速報メール。
頻繁に続く余震。
8年経った今でも鮮明に覚えているよ。
まあ頭がボケでもしない限りは8年だろうと20年だろうと覚えているだろうよ。
いや、ボケたとしても忘れることは無さそうだ。
2011年3月11日というのはそういう日だったんだから。