あれよの2冠

訃報。
1997年の皐月賞、ダービーを制し2冠馬となったサニーブライアンが今日亡くなった。


これはサニーブライアンが2冠を制した翌日の読売新聞の切り抜き記事。
皐月賞を制して初めて大きな注目を浴び、そして次のダービーで本物だということを知る。
そしてそのまま走ることなく引退。
本当にあれよあれよの馬だったなと思ったよ。
1997年の1月のジュニアカップに当時期待してたセイリューオートキオエクセレントが無名だったサニーブライアンに逃げ切られるという時に初めてサニーブライアンの名前を知った。
まだ競馬初めて2年目だったせいか、当時居た同じ逃げ馬のポートブライアンズと被っちゃったこともあったけど。
逃げないで先行競馬で弥生賞3着に入り、続く若葉Sで圧倒的な1番人気になったけど4着という不甲斐ない成績で全くのノーマークになる。
当時、色々展開を考えて凄く不安だったのがスローペースでの前残り。
当時注目馬だったメジロブライトランニングゲイルエアガッツエリモダンディーオースミサンデーらが比較的後ろから行く馬だったので逃げ馬がペースを作ってくれないとメジロブライトらには勝ちはないと思ってた。
サニーブライアンはその中に居た唯一の逃げ馬。
ただ弥生賞ランニングゲイルがあまりにも見事な勝ち方をしたために人気薄の逃げ馬の前残りを一切考えなかった。
皐月賞は直線に向いた瞬間に諦めた(笑)。
これは届かないとまだゴールしてないのに結果がはっきり見えたのはあの時は最初。
あの時は確か・・・馬連で5万ぐらい付いたんだけっかな?
今じゃ全く驚かない配当だけど、当時からしたら大事件だよ。
当時、大川慶次郎氏が有力馬が後方で牽制しあってサニーブライアンだけが上手い競馬をしたみたいな発現してさ、ワシもその言葉を鵜呑みにしちゃったんだよね。
だから次のダービーではサニーブライアンは絶対に「ないね」と思った。
それに逃げ馬にまんまと逃げ切られたら次は同じようには逃げられないだろうと思っていたし。
あとダービーには同じく逃げ馬サイレンススズカが出走してくるから今度は楽にハナは切れないと想像していた。
ただ・・・次はない、同じ競馬は出来ない、と誰もが思っていただけに・・・また今回も誰かが潰してくれるだろう的な他人任せで誰もやれなくてまた同じ様に逃げ切られるんじゃないかな?とも考えた。
ロロラジでも言ったけど、当時ワシは右鎖骨を骨折していて右手を吊りながら競馬場へ行った。
あの時で16万ぐらい来てたのかな?でも流石に右手痛々しく吊ってる姿を見ると周りの人は気を使ってくれるね。
混雑している競馬場でも向こうから避けてくれるし、それはどうでもいいか。
残り200mの場所で見てて目の前を16頭を引き連れて坂を駆け上がるサニーブライアンを見て、「何だこの馬は!何て強さだ!」と驚愕。
残り200mでサニーブライアンが失速して後続に捕まると想像していたのに現実は真逆。
さらに勝ちタイムの2分25秒9を見てさらにビックリ。
当時のダービーレコードが2分25秒3だったからあのアイネスフウジンに近い時計で走れたということに。
勝利騎手インタビューの時に淀でも逃げると言った時に沸いた東京競馬場
しかしその数日後に骨折が判明。
翌年のAJC杯で復帰予定が太り過ぎて回避、日経賞を目指したが故障し引退。
淀の長距離を結局1度も走らないまま引退となった。
ギャロップレーサー2だと距離適正が1800〜3000mになっているけど以降の作品、ジーワンジョッキー等では2400mまでしか距離適正が無い。
サニーブライアンは2400mまでしか走れない馬では絶対ないと思う。
ギャロップレーサー2でのサニーブライアンが恐らく最も強いサニーブライアンだと思う。
2000m以上のレースでは残り1000mで手綱を緩め馬なりで走らせると直線に入るときに5馬身以上のリードを開くことが出来、本物再現が出来たりする。
97年の有馬記念前日のスポーツ紙の記事で大西直宏騎手(当時)は言った。
僕の馬(サニーブライアン)が出てたら間違いなく勝っていた、と。
そしてそのレースを制したのはそのサニーブライアンのダービーで2着したシルクジャスティス
実現しなかったけど、1998年に古馬の頂点として君臨するサニーブライアンと最強世代と言われた98年組、エルコンドルパサースペシャルウィークグラスワンダーらが激突してたらどれだけ面白いことになっていただろうか。
まあ、でもサイレンススズカが本格化した時だったらサニーブライアンがどこまで被害を被るかだよね(笑)。
「これはもうフロックでもなんでもない!」
今日はこのフレーズを何度も何度も聞くことになるね。